映画シンポジウム:アジアを知る「女らしさ Mohtarama」の報告書掲載(4月5日配信)

 2020年2月20日東京大学本郷キャンパス山上会館にて、映画シンポジウム:アジアを知る「女らしさ Mohtarama」が開催され、盛会のうちに終了しました。

 以下に本シンポジウムの報告書を掲載します。

開催報告1

今回上映されたのは『女らしさ Mohtarama』(2015年、アフガニスタン)。アフガニスタンに暮らす女性たちに押しつけられた「女性らしさ」とは何か、という問いに女性たちへのインタビューを通して迫る60分のドキュメンタリーです。

映画の舞台はアフガニスタンの三つの都市。保守的なヘラートでチャードリーを被ることを拒む女性。首都カーブルで展開される女性の権利向上を求めるデモ行進と、それに罵声を浴びせる人々の姿。そしてマザーレ・シャリフでは、10歳で結婚させられた女性が、自身を歴史上の悲劇の女性詩人に重ね合わせながら身の上を語ります。これらの点在的な動きは、次第に「アフガニスタンの女性運動」と呼べる大きな動きに繋がっていきます。

トークセッションでは、映画のキーポイントとなるムスリム女性のヴェールの歴史、作品中に登場するメタファーの解説、そして中国における男女隔離の歴史とイスラーム社会の比較など、様々な角度から議論が展開されました。

鑑賞して特に印象に残ったのは「アフガニスタンの女性運動は男女の対立構造を足がかりにせざるを得ない」という現状でした。UN Womenの掲げる ”HeforShe”というスローガンに代表されるように、今世界に広がるフェミニズム運動は性別を問わず全員が参画できるもの、という風潮があります。しかしアフガニスタンでは、女性は男性から「人間以下」の扱いを受け、抗議運動をすれば男性達から「西欧諸国の奴隷に死を」と罵られます。そのような状況では、男性も運動に巻き込むという動きに向かうのは難しいのが現状です。ジェンダー平等は普遍的な権利であることは確かですが、一方で国ごとの状況や文化的背景への十分な配慮なしに、フェミニズムの考えを各社会に当てはめることの危険性も感じられました。

(報告:山田涼華、東京大学教養学部2年)

開催報告2

シンポジウムの前半は『女らしさ Mohtarama』(2012年)を鑑賞。本作品はアフガニスタンにおける「自分の居場所が見つからないことに対する、女性たちの不安や焦り」、それと同時に「高等教育を受けた女性たちが持つ困難」に焦点を当てたものである。男性から奴隷のように扱われ、性行為の道具としか見られない現状を少しでも改善しようと行動を起こすアフガン女性たちの姿が描かれている。60分ほどの全編モノクロが印象的だった。特に興味深かったのは「(アフガニスタンでは)女性らしさが罪になる」「一層のこと男性として生まれて来られたら(良かったのに)」と洩らす女性たちの心の叫び。ここでは、女性という性そのものが生きにくさにつながっているのだ。

これほどまでに女性たちの尊厳が傷つけられているのはなぜか。アフガン男性たちは次のように主張する。つまり、女性が着飾ることは西洋へ迎合することであり、結果的にイスラームが乱れることになる。だからこそ、女性の行動を制限し管理することでイスラーム的平穏を保つ必要がある、と。作中ではこうした男性たちに対し、社会における女性観について議論を試みる女性の姿が映し出された。しかし、その場で男性たちは一方的に持論を言い放つばかりで、男女間の対話は生まれそうにない。男性たちは「イスラーム」へ固執するあまり、なかば思考停止に陥っているような印象さえ受けた。

後半のディスカッションから、さらに本作品について考えてみたい。まず、ターリバーンの崩壊後でも長らくの慣習として、そしてハラスメントを避けるためにブルカ(「ブルカ」は2001年以来報道によって定着した用語で、アフガンでは「チャードリー」が使われる)を被り続けるアフガン女性たちの話。この時、映画の中でデモを行う女性が、男性から唾を吐きかけられる場面を思い出した。彼女はチャードリーを身に着けていたものの、デモという行為そのものが男性にとっては不快に映ったからである。また、一般的に言われる「女性隔離」の考え方については、社会環境の中で徐々に「クルアーン」「イスラーム」に結び付けられて成立したのではということ。以上から、人々の中で「イスラーム」は漠然とした概念で認識されているのではないかと考えた。

こうした現状を解決する糸口はどこに見いだせるのか。ひとつは男女が共に「真のイスラーム」の達成を掲げていることだ。両者の対話が根気強く行われるならば、これを到達目標に設定できるかもしれない。さらには、女性のハラスメント被害を改善するために、男性たちが交渉の場に出ていくというエジプトの「ハラスマップ・プロジェクト」の一例。女性VS.男性という単純な図式ではなく、男性をも巻き込んで女性を取り巻く現状を変えるという可能性も示唆された。

さて、このアフガン女性たちにはどんな未来が拓かれているのか。作中に登場した、女性たちの心の支えとしての女性詩人ラービア・バルヒー(10世紀)。この「ラービア」とは「春」を意味する言葉だという。すなわち彼女の存在は、現在闘いの真っただ中にいる女性たちに「春」をもたらす希望であるということだ。映画の中で「まずは女性を変えなくては」というアフガン女性たちの言葉から、彼女たちは女性という性そのものの社会的な認識を変えたいと考えていることがわかる。そして最終的には、女性/男性という性別で一人の人間が判断されることがないよう、個人の人間性そのものに目が向けられるようになるべきではないか。映画の最後に映し出された、英語を使いこなし海外の学生とも積極的に議論を交わす女子学生の姿からは、そんなエネルギーが伝わってきた。

(報告:木原 悠、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科 博士後期課程)

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