ワークショップ「装いと規範」の報告書を掲載(6月3日配信)

 ワークショップ「装いと規範」 開催報告

 計画研究B01「規範とアイデンティティ―社会的紐帯とナショナリズムの間」は、伸縮する社会的アイデンティティと国家や集団との関係、国家や社会運動を支える規範意識の変化を研究対象とするものである。そこでは、伝統的社会紐帯意識によって結ばれた地域共同体のアイデンティティが、いかにナショナルなアイデンティティに変質・動員されるか、あるいはナショナルなネットワークを超越・分断して機能するかといった点を解明することが目指されている。このB01のメンバー、帯谷知可と後藤絵美の協働により本ワークショップの具体的な企画案が生まれ、2018年2月10日に京都大学において実現の運びとなった。概要については別添資料を参照されたい。

 本ワークショップでは「装い」という言葉を厳密な枠にはめることなく、いわゆる衣服・衣装だけにとどまらず、装飾品、化粧品、髪型などまでもそこに含めた。その上で、20世紀的モダニティの見直しや女性の主体性といった問題群に緩やかに焦点を当てつつ、まずは多様な地域の事例を出し合い、議論してみようということを基本的なコンセプトとした。

 報告者は後藤絵美(東京大学)、帯谷知可(京都大学)、野中葉(慶應義塾大学)の3名、コメンテーターは粕谷元(日本大学)と和崎聖日(中部大学)、総合司会は村上薫(アジア経済研究所)が担当した。当日は学部生、大学院生、遠方からお越しいただいた方も含めて総勢15名(うち外国人2名、若手7名、女性12名)の参加者を得ることができた。

 第一報告、後藤絵美「ニカーブをまとうまで―装いの選択と拮抗する『社会』」は、エジプトにおいて「ニカーブ」と呼ばれる顔を覆うヴェールの着用を選択したある女性の事例から、装いと社会の関係を論じている。報告者は服飾史の議論を前提に社会を「規範や記号、価値観が共有される空間」と定義し、サラフ主義の説教をじっくりと聞き咀嚼して自ら「納得した」結果としてニカーブ着用にいたったこの女性の選択が、すなわち、サラフ主義言説の中で理想とされる「社会」に生きることの選択であったと捉えている。そしてこの「社会」とはエジプトのみならず、既存の国家の境界線やいわゆるイスラーム文化圏をも越えて、今日の世界のそこここに息づいているものでもある。

 第二報告、帯谷知可「ルモルとヒジョブの境界―社会主義的世俗主義を経たウズベキスタンのイスラーム・ヴェール問題」は同じくヴェールを扱ったものだが、2000年代に入った頃から「ヒジョブ」と呼ばれる伝統的でないスタイルのヴェール着用が急増し、それが禁止されることになる歴史的背景と現代的文脈を示した。報告者はウズベキスタンにとっての「よいイスラーム/悪いイスラーム」の二分法が女性のヴェールにも「よいヴェール(ルモル)/悪いヴェール(ヒジョブ)」という形で敷衍されていることを指摘した。ソ連解体以降の伝統回帰やイスラーム復興の中でヴェール着用にいたった女性たちの選択に対して、イスラームを国家が管理・監督するというソ連的な世俗主義を継承しつつ、現代のグローバル・スタンダードとしても世俗主義を固持し、またイスラーム過激主義の流入を過度に警戒する権威主義的な国家が強い力をもって介入している事例である。

 第三報告、野中葉「インドネシアにおけるハラール化粧品の隆盛と女性たちの美意識」は、装いの中でも化粧、特にハラール化粧品に着目した報告である。女性についての書籍やイスラーム・ファッション雑誌などに見られる美やメイクに関するイスラーム的言説の分析と女性たちへのインタビューから、2000年代以降の経済成長による関連業界の活性化と購買力の向上、情報化とSNS化の進展によるイスラーム的知識の共有によって、安全かつ体にやさしい形で身なりを適度に整えることがイスラーム的価値観にも沿うものであり宗教実践にもつながるという認識がインドネシアの都市部の比較的若い世代の女性を中心に広がり、ハラール化粧品の隆盛につながっていることが明らかにされた。

 コメントおよびディスカッションでは、多様な側面からの質疑応答と問題提起によりたいへん興味深く熱い議論が得られ、時間不足が悔やまれるほどであった。特に、明らかに「見せるため」の華美なファッションという方向に進んでいるかのように見える部分もあるイスラーム・ファッションの現状をどう受け止めるべきか、イスラーム・ジェンダー論において大きな影響力をもってきたライラ・アハメドの見解は再検討する余地があるのではないか、その土地や民族に伝統的な被り物とイスラーム・ヴェールとの連続性については注意深く検証する必要があるのではないか、などの論点が得られたことは大きな収穫であったと考えている。

 このワークショップの報告部分では、中東(エジプト)、旧ソ連中央アジア(ウズベキスタン)、東南アジア(インドネシア)のそれぞれ一つの事例を取り上げるにとどまったが、コメントや議論でその他の地域や国家の事例についての紹介も得られた。こうした場を共有できたことで、参加者各自が自分の研究対象地域ではない地域の事例に対する新鮮な驚きと、比較の視点を持つことの面白さを経験したように思う。また、全体の議論を通して「現代」や「イスラーム」のもつ共通項に加えて、そこにある多様性や変化のさまが浮かび上がってきた。今後は対象地域をさらに増やすのはもちろんのこと、ほかにも検討してみたいトピックの候補もいくつか見えてきたので、このワークショップの営みを継続しつつ、ジェンダーやモダニティ、ナショナリズム、アイデンティティの問題を幅広い視野から考えていければと願っている。

 ワークショップの成果は、帯谷知可・後藤絵美編『装いと規範―現代におけるムスリム女性の選択とその行方』(CIRAS Discussion Paper No. 80、京都大学東南アジア地域研究研究所、2018年3月)として刊行した。(本報告はこのディスカッション・ペーパーの「序言」に基づいている。)

(文責 帯谷知可)

ワークショップ「装いと規範」概要

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