研究概要

 本計画研究は、狭い地域を起点とした社会的紐帯に基づくネットワークの、幅広い伸縮を支える社会的アイデンティティと国家の関係、そして国家や社会運動を支える規範意識の変化を研究対象とする。そこでは、伝統的社会紐帯意識(エスニシティ、地縁意識、親族関係、宗教、宗派、部族など)によって取り結ばれた地域共同体のアイデンティティがいかにナショナルなアイデンティティに変質・動員されるか、あるいはナショナルなネットワークを超越・分断して機能するかといった点を解明する。
 近年国際社会で顕著な他者に対する激しい排撃、ヘイトともいえる排斥主義において、しばしば伝統的社会アイデンティティがオーセンティックな形で強調され、排斥行為にナショナルな主張や宗教的な正統性が付与される現象が顕著であることは、アイデンティティ研究の現代的意義を示すものである。
 本研究計画は、ナショナル、サブナショナルなアイデンティティの変容と政治変動、社会運動との連関性を、政治学、歴史学、文化人類学、文学などを融合させて、インターディシプリナリーな分析手法を用いて解明する。とりわけ、アイデンティティの政治的動員過程には、アイデンティティの喚起、動員におけるシンボルの果たす役割が大きく、この点に特に注目して分析を行う。
 特に、ヨーロッパ、中東・中央アジア、アフリカの諸事例を取り上げ、(1)ナショナリズムの形成とサブナショナルなアイデンティティとの共存と相剋、(2)絵、音楽、映像など、非言語的象徴を通じて浮き彫りにされるアイデンティティと社会的ネットワークの関係と変質、(3)社会経済的変容と紛争、および紛争主体のアイデンティティ変化の連関性、を分析する。
 本研究の特徴的な点として、多様なアイデンティティ間の相剋とその紛争に至るまでの排他性、その政治や社会運動との関係性について、近年の社会科学において主流たる制度的アプローチ、合理的選択アプローチの限界を認識し、あえて非制度的主体に注目、文学や文化人類学によるアプローチを重視する。そのため、山本は文学研究の観点から、アラブ諸国、特にエジプトにおいて2011 年の路上抗議運動により生成された新しいアイデンティティと、それが政治、社会運動に与える影響を検証する。帯谷は歴史学の手法により、女性解放運動とヴェール放棄の問題を、近代化とイスラーム・アイデンティティとの関連で論ずる。また同じく歴史政治学の観点から福田が、非言語的象徴を通じて浮き彫りにされるアイデンティティと社会ネットワークの関係について、1960 年代の東欧諸国を例に取り、権威主義体制維持におけるシンボル操作の役割を分析する。
 同様に、イスラエル占領下のパレスチナにおけるシンボル分析を行う南部を研究協力者に加える。そして、紛争とアイデンティティの関連については、代表の酒井がイラクなど紛争下の宗派アイデンティティの先鋭化を、いずれも政治学の枠組から分析し、佐川が文化人類学の観点からアフリカ牧畜民の土地への帰属意識と紛争との連関性について、分析を行う。